もうずっと昔のこと。大学時代によく通っていた珈琲店があった。
木のぬくもりが優しいお店。
扉を開くと、カランカランと鈴の音が響く。
「いらっしゃい」
そこには、いつもとびきりのマスターの笑顔があった。「ただいま」と言いたくなるくらい、温かい雰囲気に包まれる。
ちょっと眉毛が濃くて、クマのぬいぐるみのように愛くるしいマスターが、私は大好きだった。
そして、隣には物静かで優しい微笑みを絶やさないマダムがいる。
(こんな夫婦って、いいな……)
そんな風に素直に思える、素敵な二人だった。
広いテーブル席もあったが、私はきまってカウンターに座った。
壁一面には、色彩豊かなの珈琲カップとソーサーがきれいに並べられていて、個性を主張している。
席に着くと、いつのも珈琲を注文して、それからひとつひとつのカップを眺めた。
「今日はどのカップがいいですか?」
マスターは毎回、好みを聞いてくれる。
好きなカップをその日の気分で選べるのは、ちょっと嬉しい。
一杯ずつ丁寧に淹れる珈琲。炭火焙煎の芳醇な香りが漂ってくる。
マスターとさり気ない会話を交わしながら、一杯の珈琲を味わう至福のひととき。
店内には心地よい音量で、クラッシックが流れている。重厚なテーブルに、センスよく活けられた花や緑。すべてが調和していて、リラックスできる。
青春時代の思い出がたくさんつまった珈琲店。
卒業してからも、時折足を運んだ。
マスターは「お久しぶりですね」と言って、変わらない笑顔で迎えてくれた。
そして、長い年月が流れていった。
多忙な毎日に追われているうちに、いつしか足が遠のいてしまった。
ある日、ふと(マスターはどうしているだろう?)と思い出した。
こういうとき、ネットで検索できるのは便利だ。
二人は元気にしているだろうか。
早速サイトを見つけて、ウキウキしながら画面をスクロール。
すると、思わぬ文字が目に飛び込んできた。一瞬にして身体が凍りつく。
(そんな……)
私は、言葉を失った。
あのマスターが、もうこの世にいないだなんて。
忙しいだなんて言い訳をせず、もっとお店に行っておけばよかった。
いつでも、あの場所に行けば会えるだろうと、勝手に思い込んでいた。
私もこれだけ年を取ったのだから、マスターだって年を取るよね。
そう、わかっている。
ただ、もう一度、マスターの笑顔が見たかった……
それでも、目を閉じれば、「いらっしゃい」と出迎えてくれたマスターの笑顔を、ちゃんと思い出すことができる。
私の記憶には、しっかりと刻まれていたのだ。
あの素敵な空間、共に過ごした時間を、ずっと心の中にしまっておこう。